場所(地図)

城内町。近鉄橿原線郡山駅。北西徒歩5分(800m)

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郡山城跡由来

この郡山城跡は、天正8年(1580)筒井順慶が、時この附近一帯に館を築きそれぞれ割壕していた豪族達を平定、織田信長の力を背景に大和一国の安定勢力として築城した処である。
その後豊臣大納言秀長が兄秀吉の命を受け、俗に言う百万石の禄高をもって入城、今日に残る本格的城郭の構築を開始すると共に下町の建設にも力を尽しついで増田長盛の代に至ってその総縄張りが完成した
奈良県指定史跡
説明:

織田信長の命により、筒井で築城していた筒井順慶は急遽郡山に移り住み、天正8年(1580)に大和郡山城を築いた。しかし、天正12年(1584)に36歳の若さで没すると、翌13年には豊臣秀吉の異父弟にあたる豊臣秀長が、入城して、大和、紀伊、和泉を領地として100万石をもって統治した。

その後大規模な築城を行ない、城下町の繁栄に力を注いだ。この頃が歴史上、大和郡山が最も栄えたとされています。

当時の町名の名残として、鍛冶町、材木町、綿町、塩町、魚町が今も現存します。秀長没後、城主は次々代わったが、享保9年(1724)柳澤吉保の子、吉里が15万石をもって甲斐国から入城して以来、明治まで続いた。

明治初年に城の建物は壊されたが、石垣や堀が当時の面影を伝えています。

この城跡の石垣には、平城京羅城門礎石や石塔、石仏などが奈良の寺院から寄せ集められた。このことは寺院の力を弱めるための施策ともとられているが、如何に急ピッチで工事をしたか当時の模様を想像出来よう。このとき集めた石仏をさかさまに使った事が災いしたかどうか、秀長以降しばしば城主が替わるはめとなってしまったのである。その事を知りえた関係者の手で逆さ地蔵の祠を設け、石垣の側に地蔵を配置して供養をおこなっているのです。

城跡は奈良県の史跡に指定されています。

北東隅の玄武郭に建っている城跡会館は、城の遺構のようですが、実は県立旧奈良図書館の建物を移したものです。また、城跡会館の前にある門はNHKがドラマに使用したものをそのまま譲り受けたものです。

本丸跡には柳澤吉保を祀る柳澤神社があり、追っ手門櫓と堀を挟んで続いています。この神社は明治13年に創立されました。

復元された追手門、隅櫓、多聞櫓などが往時を偲ばせます。天守台の石垣には、さかさ地蔵や羅城門の礎石など、転用石があります。県文化財。市民会館は明治41年築の旧県立図書館。昭和45年移築保存。